■移民の日 特集号


■通訳5人男の一人眠る−在留邦人に尽した峯−「笠戸丸刀傷事件」船員の墓?も

 サントス日本人会(上新会長)が毎年欠かさず、その命日に足を運ぶ墓地がある。第一回笠戸丸移民をサントスで出迎えた五人の日本人通訳(通訳五人男)の一人、峯昌(みね・さかえ/一八八八〜一九二七/群馬県出身)の墓がそれだ。
 峯は弱冠十九歳で二等通訳官として着任。笠戸丸到着より一カ月程早く、一九〇八年五月三日にサントスに降り立った。
 サンパウロ、リオデジャネイロと駆け巡り、海外興業支店員、カタンヅーバのコメルシオ銀行員を経て一九二三年、サンパウロ総領事館のサントス出張所の開館とともにその副領事に着任している。移住者とともに苦労した経験が役立ってか、在留日本人から人気が高く、特に沖縄県人から慕われたという。
 その後、病に伏し一九二七年六月二十三日、三十九歳の若さでこの世を去っている。最後にはサントス領事館の領事に昇格している。(『埋もれ行く拓人の足跡』から)
 その峯の眠る墓がサントス市営市場からほど近いパケタ墓地にある。二百十九番にある墓石には、一九二八年八月サントス日本人会によって建立とある。天を射すような墓石のオベリスク・デザインは、決して七十年も前のものとは思えない新しさを見る者に与える。
この峯の墓は数十年もの間、その存在を忘れられていた。それは戦中、日本人移住者に対する二十四時間以内の強制立ち退きがあったためだ。サントスの何もかも、日本人の記憶すべてが消失された。
 戦後に日系人が戻ってきてからも、峯の墓もまた分からずじまいだった。峯の親類、知人がサントスにいるわけもなくまた、気に止める人もいなかったようだ。
 そんな墓を偶然見つけたのが、現在のサントス日本人会の上会長だ。親戚の墓参りにパケタ墓地を訪れた時、ふっと変わった墓石があるのに気が付いたという。
 「話には聞いていましたが、まさか峯昌の墓だとは思いませんでした。発見したときは手入れも何もしていないから荒れてましてね。墓標の銅版も盗まれていました」と当時を振り返る。
 その後、サントス日本人会で墓の管理するようになった。墓石の清掃はもちろん毎年、命日の墓参も欠かさない。月々、日本人会で墓地の方に管理費を払い、荒らされぬように見てもらってもいる。
 「管理費もばかになりませんが、日本移民の歴史で欠かすことのできない重要な人物であり、またこのサントスとゆかりの深い人だけに、お世話を続けたい」と地元日本人会でも有志の協力を得て、墓守りに当たっている。
 そしてもう一人、このパケタ墓地には、歴史的な日本人が眠っているとみられている。その墓は墓地の北側の五十番にあり、墓標も何もなく、ただ一風変わった墓石のみがポツンと、黒ずんだ姿をさらしていた。
 「笠戸丸に乗っていた水野龍の刃傷未遂事件で身代わりに刺され死亡した、横山清蔵火夫長の墓ではないか」
 「笠戸丸刃傷事件」とは、笠戸丸がサントス港に到着する三日前、一九〇八年六月十五日の夜のできごとだ。同船していたブラジル移民を企画した水野龍は道中、懐寂しく十分なチップが払えず、船員間に不満が高まっていた。また長旅で船員のモラルが低下していたのも重なったのか。ある火夫が夕食時、酒に酔い〃水野を殺す〃と刃物を持って襲った。これに止めに入った横山火夫長が腹部を刺されたという事件だ。火夫長はサントスのサンタ・カーザ病院でなくなったと日本移民五十周年記念誌『かさと丸』にある。
 「一九三〇年代に、大雨でサンタ・カーザのあった崖が崩れ、墓も落ちたようです。その後、サントス市内にその当時、一カ所しかなかったこのパケタ墓地に移されたらしい」と上会長は語る。
 この横山火夫長のではというこの墓は、確かに他のキリスト教の墓とは異なり、どことなく日本的な雰囲気を持った形をしている。石材は他の墓にある御影石や大理石ではなく、日本の大谷石のようなもろく、ごつごつした石を使用している。
 墓標も墓石への刻名も何もなく、だれの墓なのかいつ頃の墓なのか、その詳細は全くわからないのが現状だ。もちろん墓地の管理者も知らず、管理料も支払われていない。
 すべて推論でしかない移民にまつわる謎話。そんな逸話、昔話がサントスにあった。