■ブラジル経済 持続的成長軌道へ

特別寄稿 田中信

 ブラジル日本商工会議所専任理事で経営コンサルタントの田中信さんは、日系切っての経済通として日伯両国の懸け橋役を務め、講演、邦字紙誌への寄稿なども精力的にこなしている。本欄では、最近のブラジル経済の流れをとらえた中での日伯経済関係の概説を試みていただいた。

■大国化へ阻害イメージの払拭を

 ブラジルが未来の大国であることに疑をさしはさむ者は居ないが、従来そのイメージはあまりにも悪かった。
 つい最近まで、二千%を超えるハイパー・インフレ国であったことに加え、大借金国であり、八〇年代債務危機の際にはIMF(国際通貨基金)支援融資条件を十一回書き替えたが、遂に最後まで実行出来なかった。
 さらに閉鎖的な輸入代替国産化政策、内資企業優先と外資企業差別、基幹産業の国営化などの政策を八〇年代迄続けて来た。
 二十一年間(一九六四〜一九八五年)におよぶ軍事政権終了後始めての直接選挙が一九八九年に行われたが、東北伯の小さなアラゴアス州知事をしていた全国的には無名なフェルナンド・コーロルが彗星のように現われ、多くの大物候補を破って若冠三十九才で当選した。彼は任期半ばで(一九九〇〜九二年)汚職容疑で国会の弾劾を受けて退任するが、これまでの伝統的な封鎖経済体制を開放体制に大きく転換したばかりでなく、省庁改革、公務員数削減、政府企業民営化などを開始し、世界経済のグローバル化に対応するブラジル経済の効率化を指向した。
 コーロル退任後の残存期間、イタマル・フランコ副大統領が昇格したが、蔵相に起用されたカルドーゾ現大統領が策定した「レアル・プラン」が第一次カルドーゾ政権(一九九五〜九八年)の経済政策であり、基本的にはコーロル大統領のアイディアを受け継いでいる。
 第一次カルドーゾ政権の主な成果は、
・レアル・プラン直前には瞬間風速五千%を超えたインフレを終息させ、国民の大半を占める貧困層の生活水準を飛躍的に向上させた。
・憲法改正のうち、外資企業と内資企業の差別撤廃。石油、電話、都市ガスの政府独占廃止。沿海航路の外国企業への開放などブラジル経済効率化に関するものはすべて実現した。その結果、民営化も、鉄鋼、石油化学、鉱業、国鉄、電話などの分野でほぼ終了。港湾、道路、銀行、電力などが進行中である。
・財政構造改革に関しては、年金及び行政改革の基本テキストは承認され、施行法、補完法の審議中であるが、税制改革はこれからであり、更に労働改革、司法改革、政治改革なども検討中である。
・民間金融システムのリストラは九五年発令された金融機関再建計画(PROER)に基き、システム危機に至るおそれのある上位数行は不良債権を分離し、外資を含めた健全な銀行に吸収させた。このために貸出した財政資金は約三百億レアルであったが、既に一部は返済中である。
 システムに影響を与えない中小銀行は、既に五十行、関連ノンバンクは七十社以上が清算された。
 国立及び州立銀行は整理計画(PROES)により、原則廃止の方向で、清算や民営化を進めている。
 九七年のアジア危機はほとんど影響なく、九八年のロシア危機に次ぐブラジル自体への攻撃も乗り切ることが出来た大きな理由の一つとして、金融システムのリストラが民間部門でほぼ終了していたことが上げられる。

■減少する外貨準備


 九八年十月、カルドーゾ大統領は有効投票の五三%という圧倒的支持を受けて史上初の再選を果たした。
 これを報じたロンドン・エコニミスト誌は「カルドーゾ政権の四年間で、サッチヤー政権の十二年間に匹敵する仕事をした」と賞賛した。
 第二次政権スタート直後の、九九年一月中旬、為替をこれまでのドル・リンクからフローティングに移行し、レアル切り下げを実行した。予想されたよりは景気落込みも少く、懸念されたインフレ再燃もなく、ブラジル経済の回復は速かであった。
 IMF(国際通貨基金)主導による世銀、BIS(国際決済銀行)や先進国からなるブラジル支援パケジで、総額四百十億ドルの融資と三年間の経済計画が合意された。
 その初年度である九九年は、最重要目標である財政一次収支を達成した。ブラジルがIMFとの合意目標を達成したのは始めてである。更に本年四月には、IMFパケジの借入残高額二百億ドルを殆んど期前返済した。
 アメリカ経済の空前の好景気継続と、アジアを始め全般的な世界経済の回復傾向も追い風となって、ブラジル経済は、持続的成長軌道に乗り始めた感がある。
 予想される阻害要因としては、米国経済過熱によるインフレを防止するための金利引上などによるハード・ランディングの可能性もあるが、グリンスパーン米国連邦準備制度(米国の中銀)議長の適切な舵取は全幅の信頼を集めており、軟着陸が期待されている。
 ヘッジ・ファンドなど巨大な投機マネーは九七、九八年とアジア、ロシア、ブラジルなどに猛威をふるった後、しばらく目立った動きを見せていない。しかし、安定を嫌うのが投機マネーの本質である。昨年一年間で価格を十ドルから三十ドルへと三倍上昇させた石油市場の主役は、OPEC(石油輸出国機構)でも石油メジャーでもなく、米国株式バブルで膨張したヘッジ・ファンドだという説も有力である。本年三月末OPEC会議は、十一カ国中二カ国を除いて増産を同意し、原油価格は一応の安定をみせたが未だ楽観出来ない。更に他のコモディティ(国際商品)へのアタック可能性も無視出来ない。
 九八年ブラジル危機前、ブラジルの外貨準備は七百億ドルを超えていた。今日は二百億ドル台である。当時はドル・リンク制、今日はフローティング(変動制)という相違はあるが、無防備感はまぬがれない。最近、ジョルジ・ソロス氏のファンドが五十億ドルの損失を蒙ったという報道もあるが、このような弱点を速急に補強しながら、成長の持続をはかってゆくことが望まれる。


■日伯関係は縮み傾向


 これまで、日本からブラジルへの投資ブームは二回あった。
 最初は一九五〇年代で、クビチェック大統領が「五〇年を五年で」というスローガンで外資を積極的に誘致した。鉄鋼、自動車などブラジルの近代化、工業化が開始された時期でもある。この時期日本企業が数十社進出したが、ナショナル・プロジェクトのウジミナス製鉄や、日伯協力のシンボル的存在であったイシブラス造船(その後売却された)などもこの時代である。
 第二のブームは六〇年代終から七〇年代始めにかけてで、軍事政権の下、インフレはコントロールされ、平均一〇%の経済成長が続き「ブラジル経済の奇蹟」と言われた。日本企業は数百社進出したが、「失われた八〇年代」に可成り撤退したが、現在ブラジルで活躍している三〜四百社のうち六〇%以上が、この時代に進出したものである。ナショナル・プロジェクトも、アルミ(アルブラス、アルノルテ)、パルプ(セニブラ)、セラード開発などはこの頃開始された。
 この時期、怒涛のようにブラジルに進出した日本企業も、海外経営の不慣れ、文化の相違、石油ショックなどに続くブラジルの「失われた八〇年代」には撤退が相次いだ。
 九〇年代に入り、ブラジルは開放経済への転換、レアル・プランによるインフレ終息などにより、再び世界の注目を集めるようになった。
 海外からの直接投資の流入額は、九二年八億ドル、九四年十七億ドル、九五年三十六億ドル、九六年九十一億ドル、九七年百六十二億ドル、九八年二百五十九億ドル、九九年三百億ドルと急増している。
 欧米企業の積極的な進出に対し、日本企業は極めて消極的で、欧米企業とのブラジルに於ける格差は拡大傾向にある。
 ブラジル日本商工会議所会員会社数をみると、一九七九年三百社(うち日本進出企業二百一社――以下同じ)、八九年三百二十八社(二百十五社)をピークに九〇年代に入ってから年々減少を続け。九九年は二百八十四社(百六十七社)となった。これに比し、欧米の会議所会員数は九〇年代に入り急増し、アメリカ三千百社、ドイツ九百社、フランス七百五十社、イタリア六百五十社等となっている。「失われた八〇年代」より減少しているというのは日本だけである。
 ブラジル「最良及び最大企業五百社」(エザーメ誌)に十五年前、日本企業は十社含まれていたが、現在(一九九七年)は五社となっている。各国上位十社の平均売上高を比較すると、米国は日本の十二倍、ドイツが七・五倍、イタリア五・三倍、フランス四倍などとなっている。収益率も十年間平均で日本企業五・五%に対し、米国一一・四%、英国一一・七%、イタリア一〇・八%、フランス一〇・二%、スエーデン一二・四%と極めて見劣りがする。
 本年はブラジル発見五百年である。
 当時、世界の海へ飛躍したスペイン、ポルトガル、オランダなど、ヨーロッパの小国のブラジル向投資が活発化している。九八年及び九九年(一〜九月)間のブラジル向国別投資額は米国九十億ドル、スペイン百三億ドル、オランダ四十七億ドル、フランス三十億ドル、ポルトガル四十一億ドルなどに対し、日本は僅か五億ドルに過ぎず、残高順位で日本はこれまでの三位から八位に転落し、スペイン二位、オランダ三位、ポルトガル六位と躍進した。第二の大航海時代再来の感がある。
 日本も彼等と同じように地理的には小国である。バブル破壊後の日本企業は、銀行を始めとして、リストラの名の下に海外活動が縮小傾向にある。「縮み傾向」で内向き指向を強化するのでなく、外へ向かって活路を見い出すという発想も必要ではあるまいか。