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■先亡者の慰霊祭も−初の記念石碑建立−「広く幸せ(福博)になろう」
11月9日(金)
福博村の入植祭は、三十、四十、五十、六十、七十周年と十年ごとに行われている。どの年もメイン行事が行われてきたが、一番の原点は、先亡者の慰霊祭にある。特に開植当時、開墾時代は厳しい環境にあり、医療面にも恵まれず疫病による死亡率が高く、抵抗力の弱い幼児の犠牲が多かった。これらの開拓犠牲者、志なかばで逝った数多くの村民の霊を供養することは入植祭にとって最も大切なことであり、村民は、それぞれの先祖や開拓の先人たちを偲び冥福を祈った。特に入植七十周年を記念して、記念碑の除幕式も合せて行われ、さらに郷土史研究家の大浦文雄顧問が「村の歩みと慰霊祭について」と題して講演し、深い感銘を呼んだ。
三月十一日、七十周年記念行事の先駆けとなる記念慰霊祭と記念の石碑の除幕式が、福博青年会館で開かれた。慰霊祭には関係者約三百人が出席し、七十年の間に亡くなった二百七十九人の先人たちをしのびその功績をたたえた。上野ジョルジ福博村会会長は追悼の辞で、「病気、事故など夢半ばで逝った先人の犠牲的精神に対してめい福を祈りたい」と述べた。
慰霊祭に先立ち午後一時半から、福博植民地の創設者原田敬太さんの日記を刻んだ石碑の除幕式が行なわれた。上野会長、杉本正さん(一九三一年十一月入植)のほか、サンパウロから駆け付けた原田さんの末子、芳郎さん、初期入植者の一人古賀茂敏さんの娘、江沢香さんの四人で幕が引かれた。石碑には一九三一年三月十一日、原田さんが入植した日の日記をそのまま拡大した形で文字が刻まれている。
慰霊祭の冒頭、六日亡くなった故マリオ・コバス聖州知事へ一分間の黙とうがささげられた。献花献灯、村会会長あいさつに続き、二百七十九人の先亡者の名前が読み上げられた。上野会長、古賀満・婦人会会長、杉本正・福栄会会長、日本語学校を代表して白川みゆきさんが追悼の辞を述べた。浄土真宗(川上寛祐師)、真言宗(谷口円照師)の二宗派で読経、焼香が行なわれた。最後に遺族代表として石橋聖哉元会長が、「この七十年間で約三百人が亡くなりました。皆さんの協力でこうして慰霊祭を行なうことができ、先祖たちも喜んでいることでしょう」と謝辞を述べた。
休憩を挟み、大浦文雄村会顧問が「村の歩みと慰霊祭について」と題して講演した。
大浦顧問は七十年間の活動として、「村における十の基礎設備」を挙げた。三四年十月に小学校落成。三八年に青年会館が落成、これで村民が集まる場所が出来た。続いて四〇年にスザノ駅へのバスが開通した。四七年、グルッポ校落成。四九年に福博寺が出来たことで精神生活にゆとりが生まれる。五八年に現在の村会会館が完成、同年九月に村に電線が敷設された。六八年、バルエリ、中央、パルメイラ、チジョッコの四日本語分校が統一された。七一年には中学校が開校した。そして七三年、電話が開始された・・・。
三一年、原田さんがアララクアラ線サント・アナスタシオからスザノへ移り、福博植民地を開いてから七十年。大浦顧問は福博村が村として形を整えていく過程を、時にこぼれ話を交えながら分かりやすく説明した。「結論は、ありません」と、大浦顧問は出席者に語りかけ、「全てはこれから若い世代にどう引き継いでいくかにかかっています」と講演を締めくくった。
「福博」の名は、一説に原田敬太の出身県、福岡県博多市から命名されたとされている。しかし、大浦顧問によれば、「広く(博)幸せ(福)になるために」との意味もあるという。
■牛の人工授精に成功−酪農組合設け普及に努める
福博村で牛の人工受精を試みた人たちがいた。上野博さんもその一人だ。
上野さんは現在七十九歳。五歳で渡伯後、リンスの第二上塚植民地を経て四六年、福博村に入植した。八三年から八五年まで福博村会の会長を務めている。
一九五一年、上野さんと十数人の仲間が中心となって福博村酪農組合が設立された。牛一頭からのスタートだった。良質な乳牛生産のため、組合では人工受精に取り組み始める。最初に購入したのはブラジル製の人工受精器。後に日本製を購入した。
以後、農業と兼業しながら上野さんたちは牛の改良に努める。アグア・ブランカの農業試験場に足を運び、冷凍保存した牡牛の精液を持ち帰る。受胎を確認するまでには十四日かかった。「やれば必ず産まれたよ」と、上野さんは当時を振り返る。視察旅行にも度々出かけた。
牛は順調に増えた。最盛期には一日百百五十リットルの牛乳を採取した。上野さんの息子で現在村会会長を務めるジョルジさんも、町に牛乳を売りに出る父親の姿を覚えている。
酪農組合は十五年ほどで解散する。理由は牛乳の値段。「水より安いのでは商売にならない」と皆見切りをつけた。さらに、サンパウロ近郊の都市化による地価の値上がりが拍車をかけた。農業をやめて町へ出た人も多い。
記念式典の当日、村会会館の外には臨時の野外資料館が開かれた。冷蔵庫、テレビ、カメラなど往時の生活を偲ばせる品とならんで、木製のケースに飾られた牛の人工受精器一式が訪れた人たちの目を引いていた。寄贈したのは上野さんだ。「いま思えば苦労したけど、あの頃はみんな希望にあふれていた。苦労だなんて思わなかったよ」、器具の一つを手に取りながら上野さんはゆっくりと語った。
■田島、島田さんら奔走−記念行事裏から支える
村会の要職の書記理事をつとめる二人が今回の記念行事でよく健斗した。
田辺治喜さん(五三、帰化人、福岡)は十四歳で渡伯した準二世、八年前に学務委員を体験した、役歴は少ないが、今期役員に復帰した。「魅力ある村つくり」に参画したいという。
「自治体として発足した村が親睦団体化しているが娯楽面から事業面でも話し合える組織に軌道修正する時にきていると思う。基本的には親の経済力強化が子供たちに影響する」が意見。
ポ語書記の島田純一さん(四〇)、故島田仁さんの長男。地元出身の医師、パルメイラ保険所に勤務。
医学生の時に青年会で活動、地元で巻九まで日本語を学んだ。「父が十三年前に死亡、母は町住いがいやなのと福博の女性と結婚したことで村に残ることにしました。自分の子供を村の日語校に入れ、村で暮らす大事さを感じています」と話していた。
村の若者が都市生活に憧れ、その多くが離村していくなかで、村にとっては貴重な存在である。 |