■福博村入植70周年祝う

■福博村入植70周年祝う

■「理想の村」づくり−農業と文武両道に励む

■「福博小学校との出会い」−大浦顧問が記念講演

■伝統と郷土愛で結束−大河ドラマの「福博史」−福岡県人が原始林に斧

■10年ごとに入植際−在住147家族、堅実に農業経営

■上野さん父子で会長−中止していた青年会も復活

■先亡者の慰霊祭も−初の記念石碑建立−「広く幸せ(福博)になろう」

■牛の人工授精に成功−酪農組合設け普及に努める


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11月9日(金)

 「朝八時着聖。一同と自動車でノルテ駅(現ブラス駅)に出て十時半の汽車で無事乗り換えスザノ駅に十二時半安着。果樹園に午後一時また安着。一同と晩食す。安着祝いに一杯のピンガだった」一九三一年三月十一日、これがスザノ福博村に草分け入植した故原田敬太さんの残した日記である。以来、村人たちは三百アルケーレスの土地を開き、理想の村つくりに励み、村は栄え、教育振興、剣道の普及にも多大の成果を修めた。幾多の俊才を輩出し、福博の名は全伯に知られた。しかし貯水湖建設のための土地の接収、都市集中化などの影響、さらに近年は村内の公有地にファベーラが増加、治安など複雑な問題が生じている。このような中で入植七十周年を迎えた福博村(上野ジョージ村会長)では九月十六日の記念式典を中心に十二月まで多彩な記念行事をくりひろげ「福博の古希」を祝し、二十一世紀へのスタートとした。


■「理想の村」づくり−農業と文武両道に励む

 九月十六日、スザノ福博村入植七十周年記念式典がスザノ市イペランジャ区の福博青年会館で開かれた。この日のために村の内外から三百人以上が集い、互いに旧交を温め合った。三月の慰霊祭を皮切りに今年、福博村では様々な記念行事を行なってきた。参加者の中には五十年振りに村を訪れる人の姿もあった。式典では、戦前の福博小学校生徒と現在の日本語学校生徒との交歓の場も設けられるなど、この日集ったかつての同窓生たちは古希を迎えた福博の地にそれぞれの思いをはせた。
 式典にはエステバン・ガルボン・デ・オリベイラ・スザノ市長をはじめ森和弘副市長、林佐美男市議、安楽光男汎スザノ文化体育農事協会(ACEAS)副会長など多くの来賓が訪れた。
 午前十時、先没者への黙祷、日伯両国歌の斉唱に続き上野ジョルジ福博村会会長があいさつした。上野会長は先人が村に果たした貢献に対して謝意を表し、「今日の催しが皆さんの心に残る一ページになることを願います」と述べた。あいさつの後、功労者表彰、高齢者への記念品贈呈が行なわれた。
 三十二人の功労者と、七十五歳以上の高齢者五十六人に証状と記念品が贈呈された。功労者を代表して大浦文雄村会顧問、高齢者を代表して杉本正さんがあいさつした。大浦顧問は、「今の福博村は発展ではなく、下降の道をたどっている。村を守っていく次の世代には多難な世界が広がっていると思うが、頑張ってもらいたい」と言葉を送った。
 杉本さんは現在八十三歳。一九三一年十一月に福博村に入った。杉本さんは、「入植当時の思い出がよみがえります。人によって年数は違っても、福博と歩んだ歴史は同じ。既に老境にはあるが、これからも村のため、社会のため役立てるようお互いに励ましあっていきたい」と謝意を述べた。日語校児童絵画作品展の表彰式の後、来賓の祝辞に移った。
 オリベイラ・スザノ市長からは、日系コロニアがスザノ市の発展のため果たした功績に対し大きな賛辞が送られた。また安楽汎スザノ農事協副会長は、「今年はスザノ市、スザノ市北部の日本人入植八十年の年に当たる。その中で福博村は数多くの優秀な人材を輩出してきた。これからもスザノの、そしてブラジル日系コロニアの模範となってほしい」と祝辞を述べた。
 上野会長、丸山貢青年会長、古賀満婦人会長、上野博元会長により七十周年記念のケーキに入刀、石橋聖哉元会長の音頭で一同乾杯した。


■「福博小学校との出会い」−大浦顧問が記念講演

 午後のプログラムは、「福博小学校『昔との出会い』」。大浦文雄村会顧問が福博小学校の歴史について講演した後、戦前(一九三五〜四〇)の福博小学校生徒と現在の日語校生徒との出会いの場が設けられた。
 福博村に日本語学校ができたのは、植民地開設から三年後の一九三四年。生徒は十二人。校舎はなかった。
 三五年、日本人会設立に伴い学校建設の機運が盛り上がる。スザノの農場主ロベルト・ビアンキから六アルケールの土地と一万枚のレンガの寄付を受け同年、校舎が完成した。生徒数三十八人。翌年十二月、五人の一期生が卒業した。以後、三八年まで福博小学校は順調に発展する。
三九年、政府の外国語禁止令により、福博小学校は閉校に追い込まれた。閉校後は戦前最後の教師、渡辺正治、幸枝夫妻が巡回教授を行なうが、これも四〇年十月に終了を余儀なくされた。日本人会は父兄会と名を変え、四年制のグルッポ校を設立、終戦までブラジル学校の運営に携わる。
 戦後の日本語学校再開は四七年から。中央、バルエリ、パルメイラ、チジョッコの四つの分校が設立された。六三年、世情の安定とともに四分校は現在の福博小学校に一元化される。以後、七〇年代にかけての最盛期には生徒数百七十人を数えた。
 そして現在、福博小学校では三十五人の児童が学ぶ。「福博小学校ができた時、生徒の数は三十八人でした。最高で百七十人だった生徒が、七十年を経た今、再び三十数人に戻っている。偶然とはいえ不思議な思いがします」、講演の最後に大浦顧問はそう感懐を述べた。
 新旧日本語学校生徒の「出会い」は、現在の日語校児童がかつての生徒たちに当時の思い出を尋ねる形で進められた。
 戦前、一九三五年の第二期卒業生からグルッポ校、戦後の日本語学校卒業生まで順番に、かつての生徒たち約二十人が壇上に上がっていく。その中には戦前最後の教師、渡辺幸枝さんの姿もあった。現在の生徒たちが入場した。舞台が老人と子供で埋まる。
 生徒の代表が一人一人、かつての生徒たちに質問していく。「今何歳ですか?」、「故郷はどこですか?」、「何歳の時に日本語学校で勉強しましたか?」、「どんな学校でしたか?」、「仲良しだった人は?」。子供たちはメモを片手に、時にたどたどしく質問を続ける。「立派じゃないけど、いい学校だったよ」、「福博には青年になるまでいてね。今でも来る。これからもずっと続いてほしいね」、先輩たちはゆっくりと答えを返した。
 子供たちの合唱に続いて、舞台ではかつての福博小学校校歌「青垣山」の合唱が始まった。壇上で歌うかつての生徒たち、そしてそれを聞く会場の老人たちは、かつて自分も歌ったであろう曲の調べにある人は拍子を取り、またある人は口ずさみながら、その瞬間だけは小学生の自分に戻っているようだった。


■あいさつ−スザノ福博村会会長 上野ジョルジ

 はなはだ僭越ではございますが、一言ご挨拶申し上げます。
 皆様方におかれましては、ご多忙中またご遠路の所ご来席下さいまして誠に有り難く、御礼申し上げます。
 本年は、福博村入植七十周年記念の年にあたりまして、その祭典の一環と致しまして、今まで数々の行事が開催されて参りましたが、おかげを持ちまして無事成功利に終わりまして、いよいよ今年最後の行事を行なう運びとなりました事は、これ一重に村民の皆様方を始め多くの皆様方の物心両面にわたるご協力とご支援のたまものと、厚く感謝の御礼を申し上げる次第でございます。
 七十年という長期にわたり、先輩諸氏におかれましては村の発展と融和を図り献身的な努力を払われ、知識向上のために尽力されました。ここにいささかの感謝の意を表し、証状ならびに記念品を贈呈しいくばくかのご恩に報いる所存でございます。
 また高齢者の皆様方には敬老の意を表したく、敬老会を催し心ばかりの記念品を贈呈させて頂きます。
 今日のこの催しが私達の心に残る一ページになる様にと思いまして、試行錯誤致しまして色々なプログラムを作成致しました。どうか皆様方におかれましては最後までご観覧のほどお願い致します。
 申し遅れましたが、皆様方より過分なるご祝儀を頂きまして、衷心より厚く御礼申し上げます。
 最後に臨みまして、皆様のますますのご健康とご幸福を祈願いたしまして、簡単ではございますが私の挨拶に代えさせて頂きます。

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