■アマゾン開拓に挑んだ若者たち−250人が原始林入り−「指導的役割」の使命背負い
11月2日(金)
高拓生とは何か。アマゾンに植民地を作るにあたり、移住者の中心者となり指導的役割を果たす人材を育成するために高等拓植学校を創設、その卒業生が入植した。高拓生の制度が優良ジュート種の発見、育成のきっかけとなった。高拓第一回生がビラ・アマゾニアに到着して七十年、その足跡を辿る。
一九二六年、当時の駐伯日本全権大使、田付七太が水路パラー州を公式訪問した。これを知ったアマゾナス州知事がアマゾナス州訪問を要請し、田付大使はマナウス市を訪問した。当時のアマゾナス州はゴム産業が衰退し、他に目立った産業がなかったので、日本人移民を導入して全地域の農業開発を計画していた。
田付大使は帰京後、通訳官として同行した粟津金六に対して同氏の名前でコンセッション契約を締結するよう勧めた。粟津金六は当時ブラジルを訪問して市場調査中の実業家、中西源三郎と話し、アマゾナス州知事の申し出を受けることとし、一九二七年二月マナウス市を訪問して譲渡契約を締結した。
粟津、山西両氏が契約を行ったものの、アマゾン開発には多額の費用と技術、及び長期間を要し実施不可能となった。そこで田付大使は、熊本県出身で神戸高商コンセッション百万ヘクタールの権利を引き継いだ。上塚司は、一九三〇年六月七日に粟津金六らと日本を出発、ブラジルに渡って二十一人のアマゾン調査団を組織した。十月二十一日にはパリンチンスの下流、アマゾン川とラモス川の合流点ビラ・アマゾニアで入植祭を挙行、アマゾニア産業研究所を建設し、農事試験場。気象観測所、病院、実業訓練所などを開設した。
上塚司は一九三〇年三月二十日、国士館高等拓植学校を設立した。入学資格は旧制中学卒業以上、日本で一年、現地で一年実地訓練をする。人作りと事業を共に進める移民拓植事業としては極めて特色のある体制であった。
当初は国士館専門学校の敷地内にあり、国士館高等拓植学校と称された。しかし一九三二年に満州国が建設されたことで満州開拓移民が国策として取り上げられた。国士館専門学校の要人も満州進出論に統一され、アマゾン開拓を目指す高等拓植学校と原点において判然とした相違をきたした。
上塚司は国士館高拓に代わり神奈川県稲田登戸に新校舎を建設し、日本高等拓植学校と改名した。高拓生は三回生をピークに、七回生の送り出しを最後に閉校となった。高拓生は全部で約二百五十人に上った。
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