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特派員エッセー

ニッケイ新聞 2008年

第六回【棄民政策とメディアの差別】
名波正晴 共同通信社リオ・デ・ジャネイロ支局長(44、07年11月着任)

 近代日本の最初の海外移住となった一八六七年(明治元年)のグアム・ハワイ移住から戦後に至るまで、約七十五万人もの日本人が海外に雄飛した。戦前・戦後を通じて「国土狭小・人口過剰」をキーワードに、多くが国策、あるいは国の斡旋で異郷の地を踏んだ。
 皮肉にも、政府の移住政策は「棄民」を生む恐れはらんでいた。メディアが未発達の時代に地球の裏側で辛酸をなめた移民に、一般国民は「移住に苦労はつき物だ」と突き放し、メディアもこの空気を追認、逆に移民への差別意識すら透けて見える。
     ◇
 「おい、日本人がいるのか、いないのか」
 昨年七月十七日、百八十六人乗りのTAM航空の国内線旅客機がサンパウロ・コンゴニャス国際空港で着陸に失敗、全員が死亡した。東京の外信部勤務だった私の背後で、先輩デスクの金切り声が乱れ飛んでいた。
 乗客名簿の中に日本人とみられる名前があった。日本人か、ブラジル国籍の日系人か。数時間後、国籍はブラジルと分かった。「ああ、日系人か」。背後のがなり声がぴたりと止んだ。 夕刊の一面に事故の記事は収まった。だが、翌日朝刊で続報はほとんど掲載されずお終い。数人の日系人が犠牲になったことも…。
 メディアは、人の命は等価だと言いながら、選別し等級化する。新聞紙面で重く扱われる命か否か、冷然たる価値判断、ランク付けが下される。その最たる例が日本人と日系人の秤だ。 「日系人は外人になった人々。日本の読者にとって馴染みが薄い」とも言えるだろう。ただ…と、心に引っ掛かりを感じる。
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 「国に騙された」―笠戸丸移民をはじめ、入植先での移民の苦労は筆舌に尽くし難い。だが「何とか故郷に錦を」と踏みとどまり、被害を訴えず歯を食いしばって頑張った。
 二〇〇六年六月、この泣き寝入りの連鎖に終止符が打たれた。一九五〇年代後半にドミニカ共和国に移住した人々が国に損害賠償を求めた訴訟で、東京地裁は国の責任を明確に認めた。「国は土地を無償で提供すると言いながら、移民を裏切った」。賠償請求権は時効として退けたが、国の責任を認めた意味は大きかった。
 当時、訴訟を取材していた私は、何度もあ然とさせられた。例えば、土地を取得できない当時の入植先の実情から、ドミニカ側が移住計画を延期するよう要請したのに対し、外務省が「移住者は既に財産を処分して出発を待っている」と強行していた。
 移民史に詳しい若槻泰雄・元玉川大教授は「(戦後は)戦争で農地は荒れ果て、産業も壊滅。国民を受け入れてくれるならどこでも大歓迎だった」と指摘。その上で「役人は過ちを犯しても認めず、被害はさらに広がる。薬害問題と構造は同じ」と喝破する。
     ◇
 五月、私は自社の百周年企画の一環として雨期のアマゾン移住地を訪れた。昼食を共にした一世の高齢者は半生を振り返り「われわれはね、棄民だから」。淡々と生きざまを語る言葉に、私はただひたすら耳を傾けた。

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ニッケイ新聞は、ブラジル国サンパウロ州サンパウロ市で発行されている、移住者や日系人・駐在員向けの日本語新聞です。


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