特派員エッセー
ニッケイ新聞 2008年
第三回【映し鏡の日系社会】
檀上 誠 日本経済新聞社サンパウロ支局長(36、千葉県出身、07年9月着任)
「天皇誕生日奉祝運動会」――。他国の話で恐縮だが、これが私の日系社会との最初の関わりだ。昭和で言えば五七年(一九八二年)の四月。親の赴任で渡ったペルー・リマで参加した日系社会挙げての恒例行事。戦後教育を受けた小学校五年生にとって、この名称や開会式での万歳三唱は、十分に衝撃的だった。
正直な話、「戦前のようだ」と思った。だがなぜ日本人が南米に移住したのか、なぜ日系社会が日本とは異なる姿を保っているかという話を知るにつれ、歴史が人々の生活や運命を大きく変えて行くことを、子供心にも感じざるを得なかった。
中学校三年生で帰国するまで、私の情報源は短波放送だった。エクアドルからの放送、「HCJBアンデスの声(日本語放送)」ではブラジル各地の移住地に住むリスナーの手紙が多く紹介され、故郷を懐かしみつつも、それぞれの地に根を張る移民の姿を垣間見た。
サンパウロへの旅行では、リベルダージの本屋でAV(音響・映像)関連の専門誌「電波科学」を買いこんだ。今思えば、よくそんなマニアックな雑誌を置いていたものだと思うが、それも当地の日系社会の厚みゆえだろう。
ともあれ私の思春期は、南米の日系社会を身近に感じた時期だった。
帰国から二十年強、今度は幸いにもサンパウロで働く機会を得た。しかも移住百周年の節目だ。かつて漠然と感じていた移住者の苦労、祖国に対する郷愁や誇り、親世代からの価値観を受け継いだ二世以後の活躍、そして百年の重み。記者という立場で取材をし、また駐在員という立場でこの国で生活する時、自らの至らなさを痛感するばかりだ。
自分は―もっと言えば今の日本人は―、日系コロニアがブラジルで社会的信頼を勝ち得たほど誠実で勤勉だろうか。裸一貫で言葉も分からぬ国に飛び込む勇気や根性、野心があるだろうか。
日系社会や一世が持つ価値観を「古い」と片付けるのも、二世以後を「外国人」と線引きしてしまうのも簡単だ。残念だが同世代の日本人の一般的な認識は、その程度かもしれない。だが移住百年を遠い国での懐古ではなく、日系社会を映し鏡として自分たちを見つめ直す機会にできれば、と思う。
赴任直前に知ったことだが、私には一九二四年に渡伯した大叔父がいた。大叔父の定之助は画家を志して京都の画家に弟子入りし、京都駅で見かけた「一家をあげてブラジルへ」というポスターに触発され移住を決意したという。
私は京都支社に在籍中、京都駅で上司からの携帯電話が鳴り、ブラジル赴任を打診された。自分がここに来ることができたのも何かの縁だ。この縁は大切にしたい。