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■57年目の記憶―コロニアが見た戦争―(終)−幼い息子達の成長を見守る=希望に満ちた毎日

9月17日(火)

 歌い出しに、国名が来るという珍しい歌が誕生した年だった。一九三九年。アリ・バローゾの『アクアレラ・ド・ブラジル』がフランシスコ・アルブスによって録音され世に出たころ、大竹富江(現在八八歳、画家)はリオにいた。実兄と夫がサンパウロで貿易会社を経営。その支店をリオにも開いたことがきっかけとなった。サントス・ドゥモン空港にほど近い、グロリアの入り江付近に建つアパート暮らし。隣人はアメリカ人家族だったという。
 リオとアメリカの文化交流が四〇年前後を境に盛んになり出す。そのシンボルが『アクアレラ・ド・ブラジル』のアリ・バローゾであり、女優のカルメン・ミランダで、日本がアメリカに宣戦布告した時勢のリオとアメリカの距離は無論、日本とのそれなどよりはずっと接近していた。 
 太平洋戦争勃発はブラジルの夏だった。
「日曜日になると長男の手を引いて、ニテロイの海岸まで泳ぎに連れて行ったもの」
当時はごく平凡な主婦だった大竹の前に、そんな穏やかな生活との別れの日が近づく。日米対戦という黒い雲が北からの気流に乗って、リオのあっけらかんとした夏の空にも覆い被さろうとしていた。
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 (一九四二年)一月十六日「重要私文書をポツポツ焼き始める。夜、市内民間人を集合して、時局切迫の次第を告げ、各自、善処方を注意す」
 当時リオ在留邦人は二百五十六人。その一人大竹も、ブラジル大使石射のこの言葉に促され、リオを離れる。
 「『ここは日本人が少なく何をされるか分からない』と大使館の方から言われた記憶があります」と大竹。
 石射の日記によれば、「リオ在住外国人、独一〇四七、伊一五五四・・・」で、枢軸国側の移住者のなかでは日本人が少数派、団結力もぜいじゃくと言えた。大竹は「善処方」として、サンパウロ市モッカ区のイタリア人街に残す家に戻ることを選ぶ。
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 ルア・ダ・パス。天使の羽ばたきが聞こえてくるような名前の通りに住んだせいか、「戦争がどういう風に自分の身に響いてくるのか、わからなかった」という。大竹の記憶には、差別・迫害の類いのものが見当たらない。日系のお手伝いさんが買い物その他を賄っていてくれていたので、隣のリベルダーデに行くこともまれ。「日本人とは没交渉だった」
よって、多くの日本人の身の上を襲った不幸も、モッカに響く陽気なイタリア語と工場音のなかに消え入り、直接耳に届いてくることは少なかった。
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 大竹の渡伯は一九三六年十二月に逆上る。京都の材木問屋の末娘。父親を早くに失うも、「一年だけだから」と母親に誓って家を出た。ブラジルには先に移住した兄がいた。 
 到着の翌年起きた日中戦争のため、母親との約束もほごに。大竹は結婚、定住を決意する。戦中は五番目の兄がインパルで戦死を遂げた報に触れ、母親への郷愁を一気に募らせたが結局、夢にまで見た抱擁を果たせたのは五一年十月。焼け野原も昔日のことになりつつあった東京でのことだった。
 夢に見た親子水入らずの二週間も最後の夜。母親がホテルでゆくりなく息を引き取る。「日本とはこれで切れた気がしました」
再会のそのときまで、気持ちのうえでは終わらなかった大竹の「戦争」も幕を閉じ、同年の安保・講和条約調印で「戦後」を迎える日本同様、新しい舞台に立つことになった。
帰国後、パリより来伯中の画家菅野圭介に「子供はほっといても成長するから」と言われ、翌日には絵の具を買いに走った。絵描きになることは幼年からの夢だった。「主婦になっての十五年間は頭で絵を描いていた」という大竹はすぐに才能を開花させ、一躍画壇のトップに踊り出る。
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 大竹にとっての戦中は、まだ小さかった二人の息子の成長を見守り過ごした希望に満ちた毎日でもあった。その後、子育てを終えた大竹は人生を一転、絵描きとして自己の世界との孤独な闘いを八十八歳の現在に至るまで続けている。終戦から五十七年―。大竹はあの頃の「平和」を、ほんの少しの「感傷」を胸に振り返る。
 大竹がかつて住んだ通りを訪れた。その名前も今は「パス」から「リリズモ」へ変わっていた。
(終わり、小林大祐記者)

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