■再浮上する日伯学園構想−(4)−大正小学校 勝ち負けの激震くらう−二世は日本語にトラウマ
1月18日(金)
「なんで、日本語しゃべったらブタ箱か?」
戦前・戦中、公衆の場で日本語が禁じられていた当時を知る一人は語る。
「今でこそ言えるが」としながら、「(官警の)手先になっている連中は、面白半分に虐めるような状態だった。分かっていない連中に不当に虐められた。この傷はやられたものでないとわからない。誇り高い日本人であるがゆえに、痛手が残った」と当時を振り返る。バルガス大統領の新国家体制の圧力は、当時の枢軸国側移民たちを痛めつけた。
この痛手は文協創立に関わった人々の間にも、大きな影を落としているという。
終戦直後、地方の大集団地などでは日本人会が三つも存在するところもいくつもあって、負け組、勝ち組、中間派に分かれて、ひとつにまとまる気配すらない状況だった。
「文協創立に関わった人たちは、戦時中の辛さを共に体験した人々がバラバラであることを悲しんだ。"コロニアの再編"という大目的というよりは、元に戻したいという"願い"や"祈り"に近い気持ちであったと思う」と当時を知る一人は述懐する。
世情を反映して、日本語教育の関連団体も真っ二つに分かれていた。戦前からの日本語教師を中心に設立された伯国日本語学校連合会(一九五五年設立)と、主に二世や準二世の知識層により五六年に発足した日伯文化普及会(現・日伯文化連盟)だ。
日伯文化普及会はブラジル社会に対する日本文化普及を目指した団体で、ブラジル人への日本文化紹介イベントや日本語講座などを開催していた。
「ブラジル人の日本文化シンパを増やすということが、当時の"日本文化はエキセントリックだ"という一般世相を少しでも緩和することになる」(同普及会関係者)という強い思いによって、二世インテリ層などを巻き込んで活動が行われていた。
しかし、エスコーラ・ピラチニンガ(大正小学校)はどちらの動きにも連動することなく、「コロニアとは関係のない存在、影の薄い存在だった」と証言する者もいる。「盛大に活動が行われていれば、文化センターの候補地になることもなかったのでは」とも。
当時の日本語教育関係はは、戦後、同校が復活できなかった理由を「それは勝ち負けの関係でしょう。当時の識者は、ブラジル政府の逆鱗に触れそうなことは一切したくなかった」と説明する。同校に関わることで、逆鱗に触れる可能性があったのだろうか。
「それに日本の敗戦で、コロニアの中には、気持ちを入れかえて、ブラジルへの永住志向が高まっていた。だから、子供に習わせるなら日本語よりポルトガル語が優先される風潮が一般的だった」という向かい風の状況だった。
臣道連盟事件という民族テロを起こしていた日本移民に対して、ブラジル社会からの目には厳しいものがあった。それを反映してか、ブラジルの公立校で日系子弟イジメが横行し、避難所的に同校に転向する者が増え、皮肉なことに徐々に生徒は増えた時期もあった。
「五〇年代から六〇年代にかけて、その雰囲気を敏感に感じていた二世ほど、ブラジル社会への統合を意識し、日本語をしゃべらない傾向があった」と花田ルイスさん(元日伯文化連盟事務局長)はいう。
『移民の生活の歴史』(半田知雄著)の第十部"戦後の混乱と新しい生活への歩み"には、こうある。
「こういうゆがめられた愛国的行為(編註:文教普及会事務局長の野村忠三郎暗殺)が、当時精神的に成長しつつあった二世たちに、どんな強い悪影響を与えたか、戦後のある時代に彼らが一世から背を向ける原因をなしたことはいうまでもない。
(中略)戦争前から戦争中にかけて、一世の最大の悩みは二世の教育であった。そして、その教育思想の一部は、そのまま臣道連盟の思想ともなって存続してきたものであった。それが、二世自身から、いま非難攻撃をうけなければならないことになったのである。
歴史の皮肉といえば皮肉。社会的混乱のなかで新しい世代は、旧世代をおき去りにして成長していたのである」
このショックが、戦中戦後に聖市で思春期を過ごした二世層を中心に、日本的なものを誇示してはいけないというナショナリズム・コンプレックスを植えつけたようだ。この傾向は七〇年代に、ブラジル社会へ多文化主義が定着するまで尾を引いた。
勝ち負け抗争によって、むしろ、ポ語にたけた二世たちの方が深いトラウマを負っていたのかもしれない。
戦中戦後に大正小学校で学んだ横田パウロさんは、「今の文協理事には、戦前戦中にサンパウロ市内で育った人はほとんどいません。なぜなら、その時期に聖市で育った二世は、ブラジル社会へ飛び込んでいったからです」と証言する。彼自身、サンパウロ大学卒業後、ブラジリアへ行った。
そうやってブラジル社会へ飛び込んで、続々と成功するものがでた。卒業者リストにそうそうたる名前が並んでいるのは、そのような頑張りによるものも、あるのかもしれない。(深沢正雪記者)
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