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■再浮上する日伯学園構想2―戦前既に構想℃タ現―受難乗り切った赤間学院

1月16日(水)

 一九三七年のクーデターにより成立したゼッツリオ・バルガス独裁政権のエスタード・ノーボ(新国家体制)は、民族の形成と統合を理念とするナショナリズム政策をかかげ、外国移民同化政策を強く推進した。外国系学校にとっての受難の時代の始まりだ。
 三七年には「外国人入国法第八章第八五条および第八七条により、「農村学校の教授はブラジル国語をもっておこない、十四歳未満者に外国語の教授を禁じ、外国語印刷物の発行は其筋の許可を要す」(『年表』)が発令され、これが戦後にわたって外国語教育の大きな障害となる。
 三八年十二月二十五日を持って、全伯にちらばる伊・独・日を主とした外国語学校に閉鎖命令が下る。四一年七月には邦字紙が廃刊させられ、日独伊系学校も閉鎖か、ブラジル教科だけを教える普通の学校になるか、二者択一をせまられた。
 学務当局からは「役員はブラジル人のみとする」指令があり、二世教師の西江米子さんらは維持組合を作って名儀を移し、難を逃れた。名称も「エスコーラ・ビラチニンガ」に変更し、ポ語でブラジル課程のみの授業を行って、戦中も存続した。
 当時、コレジオ・ブラジレイロ・アレマン(現コレジオ・ポルトセグーロ)は大正小学校同様に、教育省の命令に従い国内校に転身し、存続の道を選んだ。
 が、ドイツ系のもう一方の雄であるコレジオ・フンボルトは、国内校になる道を選ばす、自ら閉校した。その結果、当局から経営許可を取り消され、五六年まで敵性資産として資産凍結させられた。
 翌四二年一月に日本との国交断絶、それに伴い在外公館が閉鎖された。二月には日本人集中地域であったコンデ・デ・サルゼーダス街から立ち退き命令が発令される事態にいたった。
 地方の日本語学校や日系小学校が閉鎖されたことにより、大正小学校や赤間女学院に転入する日系子弟が増加した。
 同四二年七月十一日、コレジオ・ブラジレイロ・アレマンを十九年間にわたって指揮してきた一人、ドイツ人教師グスタフ・アドルフ・ホッホさんが、いわれなき告発により政治警察に逮捕抑留された。
 アドルフさんは、当時、政治犯の収容施設として使われていた移民収容所で、収容六日目に突然、心因性心臓停止を起こし、無念の死をとげた。教育界の殉教者的人物として、ドイツ系移民史の一幕を飾る人物だ。
 四二年十二月六日、創立十周年を迎えたばかりの赤間女学院に、突然、裁判所から即刻強制退去命令が発せられ、急きょ、ベルゲイロ街へ移転せざるをえなくなった。
 四四年一月八日には、同女学院を告発する記事が、伯字紙に掲載された。「サンパウロ市の真ん中に三百人の生徒を擁し日本精神昂揚を図る黒幕の学校がある。学務当局は怠慢だ」(同学院創立五十年史年表より)というものだった。
 同年八月、伯人視学官が授業を巡視中、日本語で書かれた生徒の裁縫帳を発見した。禁止された日本語が校内で見つかったことにより、学校閉鎖命令が下った。このように政府機関からの圧力は、たいへん厳しいものだった。
 関係者の尽力により、同年十月には校名をエスコーラ・ベルゲイロに改め、新設学校として何とか開校できた。
 このような圧力下の四四年、大正小学校に入学した横田パウロさん(元中央銀行理事)は「当時は卒業するためには、最後にブラジル人の学校へ行ってテストを受けなければなりませんでした。先生は"日本人だから、そんなテストに落ちたら恥ずかしい"といってハッパをかけていました」と懐かしそうに語る。
 「四年生になったら、日曜日もお弁当を持って登校し、朝早くから勉強してました。理解している人が、進みの遅い人を手伝って、助け合いました。厳しいけれども、とても楽しかった」という。
 「とても進んだ学校でもありました。例えば、当時、普通は中学校で教えていた代数なんかも、小学校で教えていましたから」と、学力面での先進性を強調する。
 勝ち負け抗争が残っている四九年、日本語での授業が正式に認められた最初の学校にもなった。「学校を存続させたい、という先生たちの意思は強かったと思います」と横田さんは感じていた。
 小学四年で初めて"公に"日本語の授業を受けた横田さんは「戦前は"巻の一"とかいう教科書を使ってましたが、戦後は"上・中・下"に変わった」という。
 大正小学校とは、移民社会が生み、領事館と共に育て、日伯両国の優秀な教師がバイリンガル教育を行っていた学校だった。日系子弟と領事館員の子弟が机を並べ、後に連邦下議や中央官僚、大学教授を輩出したエリート校でもある。つまり、戦前の大正小学校は、そのまま日伯学園であったと言えないだろうか。(深沢正雪記者)


◇再浮上する日伯学園構想―幾つもあった建設案―大正小学校はエリート校

◇再浮上する日伯学園構想(2)−戦前既に構想℃タ現―受難乗り切った赤間学院

◇再浮上する日伯学園構想(3)−複雑怪奇なかけひき−文協創立と大正小学校の衰退

◇再浮上する日伯学園構想(4)−大正小学校 勝ち負けの激震くらう−二世は日本語にトラウマ

◇再浮上する日伯学園構想(5)−第一部 日伯学園をめぐる戦後移民史−文協がコレジオ買収?!−モデル・スクール構想 結局、記念講堂に

再浮上する日伯学園構想(6)−第一部日伯学園をめぐる戦後移民史−延満氏が提唱 総合学園構想=|田中総理は承諾、文協は棚上げ

再浮上する日伯学園構想(7)−第一部 日伯学園をめぐる戦後移民史7−立上がる日文連−邦字紙も意見二分

再浮上する日伯学園構想(8)−第一部 日伯学園をめぐる戦後移民史−日文連、単独設立へ−園児集まらず、2年後閉鎖

再浮上する日伯学園構想(9)−第一部 日伯学園をめぐる戦後移民史−続々と準♀w園誕生−「子供は待ってくれない」

再浮上する日伯学園構想(10)−第一部 日伯学園をめぐる戦後移民史−橋本首相、迅速な対応−文協のリーダーシップに問題

再浮上する日伯学園構想(11)−第一部 日伯学園をめぐる戦後移民史−「幅広い枠組作りを」−10年は赤字覚悟で

再浮上する日伯学園構想(12)−第一部 日伯学園をめぐる戦後移民史−コロニア100年の計=|二世巻込み団体再編を

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