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■再浮上する日伯学園構想―幾つもあった建設案―大正小学校はエリート校

1月15日(火)

第一部 日伯学園をめぐる戦後移民史

(第一回)

 大正小学校は実質的に"日伯学園"であった、とは言い過ぎだろうか。三人の連邦下議をはじめ、大学教授や中央官僚を輩出した当時のエリート校であり、午前はブラジル式、午後は日本式の授業が行われた。在外指定校に準ずる存在として日本から認められ、ブラジルの卒業資格もとれた。もし、存続していれば、本当の日伯学園になっていたかもしれない。にも関わらず、かっての勢いが復活することなく、戦後、静かに消えていった。戦中はドイツ系学校なども当局から圧力を受け、資産凍結させられたところもある。にも関わらず、大正小学校は消滅し、彼らは復活して、全盛期を謳歌している。なぜ、大正小学校は生き残らなかったのか。宮坂文協会長時代のモデル・スクール構想に始まり、幾つもの日伯学園的構想が生まれながら実現しなかった戦後史には、何が隠されているのだろう。

 振り返れば、一九一五年に創立されたコロニア最古の教育機関、大正小学校は最初の日系ブラジル学校でもあった。
 同年十月七日、聖市コンデ・デ・サルゼーダス街三十八番(現在の三百八番)に、宮崎信造さんらの手により創設された。最初こそ生徒三人の寺子屋式であったが、後には後援会もでき、生徒はどんどん増えていった。
 一九一九年には私立公認校の資格をとり、最初の日系ブラジル学校になった。
 一九二八年十月、父兄会の協力と、総領事館の全面的支援により、現在、ブラジル日本文化協会が立つサンジョアキン街に移転した。
 このころの大正小学校は、日本語教育の殿堂であるだけではなかった。天長節など、聖市の移民社会の主要行事は、領事館員の立会いのもと、ここで執り行なわれた。いわば、移民社会の中心的施設であった。
 戦前に、同校と勢いを争った学校としては、コレジオ・サンフランシスコ・シャビエルがある。同校は日系カトリック教徒が中心になって、二八年に設立された。
 また、三三年四月、赤間重次・みちへ夫妻が市内に裁縫教授所を設け、同年八月にはコンセリェイロ・フルタド街十八番に移転し、サンパウロ裁縫女学院と改称した。
 当時の大正小学校には、日本の外務省を通じて、日本の師範学校を卒業した、複数の教師が派遣されていた。後に校長になる両角貫一さんは二八年、柳沢秋雄さんと坂田忠夫さんは、外務省の派遣教員留学生として、三五年十二月に来伯した。
 ブラジルで正式な教員となるために、渡伯後、わずか三年程度でポ語を習得し、入学試験に合格した。師範学校へ通い、苦労して卒業した後、大正小学校に赴任している。
 三五年には、それまで後援会の経営であったのが、サンパウロ日本人会連合会に移り、よりコロニア公共団体としての性格をはっきりさせた。
 三八年には、日系人として初めて、州立サンパウロ大学哲学科を卒業した才女・西江米子さん(二世)も教師陣に加わったことからも分かるように、同校は日伯選りすぐりの人材を抱えていた。
 サンパウロ人文科学研究所の『ブラジル日本移民・日系社会史年表』(以下、『年表』)によれば、三二年四月現在で、ブラジル国内には百八十七校の日本人小学校があったという。
 いずれ日本へ帰国することを前提にしていた当時、大正小学校同様、日本式教育課程を中心とする学校が大半であった。
 特に大正小学校は、領事らの子弟も多く通学し、在外指定校同様に認められていた。
 午前中はブラジル学校としての教科を、午後からは日本人学校としての教科を授業していた。教育勅語にもとづいた「日本人教育」をする学校だった。午後の学科、行事、クラブ活動など、日本の学校と何ら変わることのない活動が営まれていたという。
 三四年から四〇年まで在学し、その後、実際に日本へ進学した川村真倫子さん(松柏学園園長)は、当時の様子を、懐かしそうに語る。
 「西江米子先生が親を亡くされた時でした。それでも、みんなにせがまれれば、一緒に遊んでくれました。遊びながらも、涙をぽろぽろとこぼして、小さなきれいなハンカチで拭いていた姿が、すごく美しかったのを憶えています。つらくても、泣きながらでも、子供と遊んでやる、そんな先生でした」
 三八年にはピニェイロスに分校(現在のピラチニンガ文化体育協会の場所)も開設する勢いがあった。
 二百人からの生徒が通う学校の中は、「まるっきり日本でした」と川村さんは述懐する。
 同校に在籍、もしくは卒業生には、そうそうたるメンバーが名を連ねる。
 初のサンパウロ州議にして後に連邦下議まで務めた田村幸重、平田進(連邦下議)、野村丈吾(連邦下議)、芳賀貞一(弁護士)、宮坂四郎(農学博士二世一号)、山根徹男(シカゴ大学教授)、翁長英雄(鉱山動力省補佐官)、遠藤四郎・マリオ兄弟(遠藤商会)、横田パウロ(中央銀行理事)などを輩出した。
 連邦議員三人、大学教授、中央官僚という実績だけでも、当時のエリート校の一つであった証明だろう。
 つまり、戦前までの大正小学校は、当時の他外国系学校と遜色ない活動をしていた。
 ドイツ系名門校、コレジオ・ビスコンデ・デ・ポルトセグーロは、二〇〇二年に創立百二十四年を迎え、別格の伝統を誇るが、コレジオ・フンボルトは大正小学校の一年後の創立だ。また、現在、南米最大規模のユダヤ系学校を誇るコレジオ・ヘブライコ・ブラジレイロ・レナッセンサは、大正小学校の七年後に設立された。
 大正小学校の創立とその卒業生は、外国系名門校の中でも、恥ずかしくない伝統を誇れるはずのものだった。現在まで存続していれば、日伯学園の第一候補であったかもしれない。
 ところが、第二次大戦を境に、大きな分岐点を迎える。大正小学校は大戦後、戦前の勢いを復活することなく消え去った。ドイツ系やイタリア系学校も同様に、敵性資産として迫害を受けたにも関わらず生き延びて、大きく発展した。
 なぜ、大正小学校は生き残れなかったのだろう。(深沢正雪記者)


◇再浮上する日伯学園構想―幾つもあった建設案―大正小学校はエリート校

◇再浮上する日伯学園構想(2)−戦前既に構想℃タ現―受難乗り切った赤間学院

◇再浮上する日伯学園構想(3)−複雑怪奇なかけひき−文協創立と大正小学校の衰退

◇再浮上する日伯学園構想(4)−大正小学校 勝ち負けの激震くらう−二世は日本語にトラウマ

◇再浮上する日伯学園構想(5)−第一部 日伯学園をめぐる戦後移民史−文協がコレジオ買収?!−モデル・スクール構想 結局、記念講堂に

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